水戸市愛宕町 通称滝坂の中程に万葉集と常陸国風土記に書かれた「曝井」があります。
万葉集
三栗の那珂に向へる曝井の絶えず通はむ彼所に妻もが
常陸国風土記
郡(コオリ)ヨリ東北、粟河ヲ挟ミテ駅家(ウマヤ)ヲ置ク、其ノ南ニ当タリテ、泉、坂ノ中ニ出、多(サワ)ニ流尤(イト)清シ、曝井トイフ。泉ニ縁リテ居ル所、村落ノ婦女、夏ノ月ニ会集ヒテ、布ヲ浣ヒ曝シ乾セリ。
上記風土記の「郡」というのは、水戸市渡里町の「台渡里官衙遺跡」にあった郡の役所のことでしょう。「粟河」というのは那珂川のこと。
常陸国風土記の記事に従って台渡里官衙遺跡から北東に線を延ばし、また曝井から北に線を延ばすと、水戸市上河内町素鵞神社付近で交差します。
素鵞神社付近は、自然堤防で周囲の水田よりも少し高い地形になっていて、北側には河川跡の様な地形があります。万葉の頃の那珂川が素鷲神社の北側を蛇行していたとすれば、那珂川を渡る南側に置かれた駅家というのはおそらく素鷲神社の辺りでしょうか。
素鷲神社の北方にある水戸市田谷町白石遺跡では、駅馬を管理する馬房の可能性のある長屋建物が見つかっています(※注)。白石遺跡あたりが那珂川を渡った対岸の駅家なのでしょう。
ところで曝井のある滝坂の両側は切通しになっていて土地が狭いように感じます。万葉集や常陸風土記の記事からは明るく華やいだ風景を想像するのですが、愛宕町にある曝井は、台地北側の坂を下る途中にあって樹木が茂って薄暗い。南に下る緩やかで開けた坂の途中に曝井があればイメージに近いのにとふと思うのです。でも藤田東湖先生がここが曝井だと決めたそうだし。なぜかしっくりこないんだよ。
※注 「長者山遺跡がつなぐ古代の道と常陸国風土記の世界」日立市郷土博物館