弘道館正門の弾痕

幕末・維新

弘道館正門には、明治元年(1868年)の弘道館戦争で打ち込まれた銃弾の痕が今も残っています。

正門には手前に立ち入り禁止の札が掛かり近づくことはできませんが、階段の下から見ると正門右側手前の柱に2センチメートル位の穴が見えます。

正門の弾痕

それが弾痕であると館内の展示に説明がありました。発掘された砲弾と錆びた銃弾も展示されており激しい戦いの様子を伝えています。

天狗党の乱鎮圧後、水戸藩の藩政は佐幕の諸生党に掌握されていましたが、鳥羽伏見の戦いの後追われる立場となった市川三左衛門等諸生党は水戸を脱出して会津に向かい、天狗党が藩政に復帰することとなりました。

明治元年9月会津が降伏すると行き場を失った諸生党は水戸に戻り、弘道館に立て籠もります。大手橋を挟んで水戸城側に天狗党、弘道館側に諸生党が対峙し、明治元年10月1日戦闘状態となりました。弘道館正門の弾痕は、そのときに水戸城側から撃ち込まれたものでしょう。

左側の柱にも同じくらいの穴のようなものが見えます。弾痕かもしれません。

入場して門の裏側に回ると、門扉を板で修理した痕が数カ所ありました。

正門裏側

この戦いで弘道館は本庁建物と正門を残してほとんどを焼失してしまいました。

10月2日、諸生党は水戸を去り千葉八日市場方面に敗走します。

あの門はそのような歴史も見てきたのですね。

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